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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第3節 焦慮 [2]




「まったく、そういうことはちゃんと教えてくれないと困るでしょっ!」
 半分ヒステリーのような声をうんざりと聞きながら、美鶴はカウンターに肘をついた。横では、成り行きでついてきた山脇が、無言でオレンジジュースを啜っている。
「いきなり警察に呼ばれるから、びっくりしちゃったわよ」
「知らせるタイミングがなかったの」
「ないワケないでしょうっ!」
 噛み付くように怒鳴られて、美鶴は口をへの字にまげる。
 霞流の家でも、今ここでも()()なく口を開く詩織(しおり)のどこに、言葉を挟む余地を見出せと言うのか。
 連絡先として、母の勤め先の店の電話番号を伝えておいた。何も知らない母への警察からの突然の電話。かなり狼狽したようで、それが気に入らないらしい。
「だって、他に連絡先なんてないじゃん。携帯持ってないし」
「店の番号を知らせたことに、怒ってんじゃないわよっ!」
「まぁまぁ 落ち着いて」
 見かねたママが間に入る。
「美鶴ちゃんも別に悪気があったワケじゃないんだし。別に、警察から連絡があっただけなんだから」
「だいたいねぇ、原因はアンタなんだからねっ」
「そう決まったワケじゃないでしょうっ」
 さすがに言い返さずにはおれない。思わず腰を浮かせる。
「でも、火元はウチの真下なんだから」
「だからって、なんで私なのよっ!」
 火事の火元は、アパートの一階。大迫母子の部屋の真下。それは、大家からも聞いている。
「ただの悪戯なら、空き部屋の鍵()じ開けて火なんて付けないわよっ 何か意図があって放火したってことでしょう?」
「放火犯の考えるコトなんて知らないわよ。ワザワザ鍵壊して放火する人だっているかもしれないじゃん」
「でも警察は、そうは思ってないのよっ」
 吐き出すような母の声に、美鶴は無言で椅子に腰を下ろす。
「仲間の仕業かもってね」
 仲間………
 カウンターにのせる手。ザラリとした感触を覚えて、美鶴は慌てて指を引いた。誰が零したのか、グラニュー糖が数粒広がっている。
 だが美鶴には、それが一瞬、砂糖には見えなかった。
 ………
 美鶴は一ヶ月ほど前、覚せい剤に関わる事件に巻き込まれたことがある。
 犯人は見つかり、事件は解決された。何も問題はない。だが………
「私はよく知らないけど、あぁいうヤツらって、ヘンなところで仲間意識が強いのよね」
 事件の犯人は二人。一人は美鶴の通う高校の数学教師。もう一人は二十代の無職の男性。
 二十代の男性は、覚せい剤の常習者だった。仲間も……… いたはずだ。
 出されたオレンジジュースに口をつける。
 仲間が捕まった腹いせに、放火したというのだろうか?
「まぁ、所詮は憶測なんだけどね」
 ようやく落ち着きを取り戻した詩織が、どっかりとソファーに腰を下ろしてため息をつく。
 詩織の勤める店は、繁華街の雑居ビルの地下一階。この世界のことを詳しくは知らないが、店としては広いほうなのではないか?
 詩織が以前勤めていた店は、もっとこじんまりとしていた。パブやスナックといった言葉が適当な規模だったと思う。小さい頃の記憶しかないが、もっと狭くて暗かったような気がする。
 それに比べると、ここは実に華やかだ。家具や装飾もキラキラと輝き、全面に貼られたガラスがそれらをさらに誇張している。雇っている女性もそれなりに数はいるだろう。外国人は使っていないと言っていた。
 店の奥で黒スーツにビシッと身を固めた男が数人、行ったり来たりしている。
 時々立ち止まり聞き耳を立てる彼らにテキパキと指示を出しながらカウンターに立ち、のんびりと開店準備をするママが眉をひそめる。
「憶測だけど、無視できないでしょう? 厄介よねぇ、そういうのって」
「まったく、冗談じゃないわよ」
 うんざりとした声。
「もし本当に美鶴が狙われたんなら、これからもこういうことが起こるかもしれないってコトでしょう?」
「うーん。じゃあ、ヘタなところには引越しできないわねぇ」
 そう言って、カウンターに広げていた書類に手を伸ばした。
「物件としてはまずまずなんだけど、前のアパートに近いから、治安的には良くないかもね」
「でもさ、あの辺りくらいじゃないと手が出ないのよ」
「そうねぇ」
 ママが見つけてきた賃貸物件。
 いつまでも霞流邸に居候するワケにもいかない。さすがの詩織も、そこまで図々しくはなかったようだ。
「でもねぇ、こんなことになって思うんだけど、やっぱ女の二人暮らしは危険よ」
「だからって、どうしようもないじゃない」
「いっそ、その霞流って人のところに厄介になったら? 家賃払ってさぁ」
「うーん、居候したらさ、やっぱ家賃払わないといけないよねぇ〜」
 ……… やっぱり図々しい。
 眉間に皺を寄せながら、美鶴はブスッとグラスに手を伸ばす。氷を一つ頬張った。ヒンヤリとした感覚が口内に広がり、キンッと差すような痛みが顎を刺激する。
 思わず目を閉じた。

 自分が、狙われたのだろうか?

 燃え上がる炎が瞼の裏に広がり、思わず息を呑む。
 窓から飛び降りた瞬間を、怖いとは思わなかった。夢中だった。
 夕闇の中に広がる炎の赤い光。その中に鮮やかな緑が浮かび上がり、その色合いを綺麗だと感じる余裕すらあった。人は、追い込まれると妙に落ち着けるのかもしれない。
 だがそれは、逆に美鶴が極限まで窮地に追い込まれていたという証拠でもある。あの時、熱さで目が覚めなければ、美鶴は煙に巻かれて命を落としていたかもしれない。

 死んでいたかもしれない………

 グラスを掴む手が、微かに震えているのがわかる。それを隠そうと、肩に力が入った。

 左の足首が――― 痛い。

 そんな美鶴の横顔を、山脇瑠駆真(るくま)はただ無言で見つめる。
 平静を装いながらも微かに怯えるその姿が、瑠駆真には可愛らしく思えた。
 不謹慎なこととはわかっていても、愛おしくすら感じてしまう。
 もう少し待って
 心の中で呼びかける。
 もう少し……… もう少しで、君を助けてあげられる。
 半分ほどに減ったオレンジジュースを凝視しながら、心ここにあらずといった表情の美鶴。そこに金本聡の姿が重なる。瑠駆真は、焦る気持ちを必死に抑えた。
 誰にも、渡したくない。
 朝、廊下で言葉を交わす二人の姿を目の当たりにして、瑠駆真は何も言えなかった。声をかけることができなかった。
「妹?」
「です」
「可愛い子ねぇ」
「マジって言ってるのか?」
 テンポ良く交わされる会話を、最後まで聞いていることができなかった。足早に教室へと入った。逃げ込んだと言った方が正しいかもしれない。
 僕は、あんな風に大迫さんと言葉を交わすことはできない。
 焦りと憤りで、まともに呼吸することすらできない。
 カリンッ
 小さな響きにハッとする。見ると、美鶴が一気にオレンジジュースを飲み干すところ。飲み干して、そうして氷をガリッと噛み砕く。
 冷たさが沁みたのか、一瞬だけ眉が潜められた。
 間接照明に浮かび上がる白い頬に、濡れた唇が艶を帯びている。
 切ってまだ間もない髪の毛に指を絡ませ、無造作に払いのける。洗ったまま手入れなどしていないだろう素髪が、照明をチラリと反射する。

 手を伸ばせば届く距離で、揺れて流れる。

 退けられた髪の向こうから覗いた目元には、放心の中に微かな憂いを潜ませている。だが、黒い睫毛が瞳に陰を落とし、そこに映るものを隠そうとする。
 そこに映るのはいったい ―――っ!
 胸の内がカッと熱くなる。
「みっ」
 美鶴―――
 声にならない声が、胸に広がる。だが広がるのは、金本聡の声。
 美鶴………
 自分の声がその言葉を音にしたのは、今までにたった一度だけ。
 声をかけたい
 手を伸ばせば届くのに。抱き寄せることもできるのに。それなのに自分は、今だに名前を呼ぶことすらできない。
 自分とこの少女との間には、距離があり過ぎる。
 金本聡とは、立場が違う。
 もう少し………
 瑠駆真は、焦る自分を必死に抑える。
 もう少しで、彼女との距離が縮まる。自分は、彼女を助けることができる。
「………大迫さん」
 山脇の押し殺したような声に、美鶴はぼんやりと視線だけを向けた。







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